TAMURA YUICHIRO
The Bright Chamber
仮)明るい部屋
被告人の拘置のみならず、死刑を執行する機能を備える拘置所。刑務所と違い、刑が確定するまでの未決の被告人、もしくは未執行の死刑囚を収容するなど確定的でない”仮”の状態を纏っているのが拘置所という場所である。死刑執行という特殊な舞台装置を備え、都市に宙吊りされる場所。とりわけ、数々の有名な事件報道の舞台となりながらも、その内側が決して外側には明るみにはならない東京拘置所という装置。いわばブラックボックスとしての暗箱。かつてカメラは、空洞の部屋を意味していたというのはカメラ・オブスキュラの議論に詳しいが、都市の暗箱、東京拘置所をカメラとして見立てたとき、ロラン・バルトによる執筆La chambre claire: Note sur la photographieの日本語訳タイトル『明るい部屋』*1 は皮肉めいた響きとなる。もし、東京拘置所をそのような明るい部屋にしようとすれば、ガラス張りの東京拘置所が夢想されるわけだが、透明かつ明るいそれは、元の建築の機能とは相反するものであろう。バルトのタイトルに立ち戻れば、cliaireという単語は英語であればclearであり、透明という意味とともにbright=明るいといった意味も包括する。その意味ではガラスはお誂え向きの素材と言えるだろう。部屋を意味するchambreは、英語であればchamberであり、roomとしての部屋よりも房といった意味合いに近く、これは拘置所のそれに近接する。ならば、ガラス張りの拘置所を写真の機能および本質へとすり替えてみてはどうだろうか。ロラン・バルトによる『明るい部屋』のなかでも拘置所に近接する項「停滞」を引き合いに、以下、中略を挟みながら「写真」の表記を「拘置所」へとすり替えて読み進めてみる。
私はただ一人、拘置所と向かい合い、拘置所を眺めている。輪は閉ざされ、出口はない。私はただじっと身動きもせず苦しむ。不毛な、残酷な、不能の状態。「拘置所」が悲痛なものであるとき、そこでは何ものも悲しみを喪に変えることができないのである。そしてもし弁証法とは、滅びゆくものを統御し、死の否定を労働の原動力に変える思考であるとするなら、「拘置所」とは非弁証法的なものである。「拘置所」は舞台の本性にもとる舞台であって、そこでは死を《見つめ》、考え、内面化することができない。言いかえればそれは、静止した「死」の舞台であって、「悲劇」は排除される。「拘置所」はあらゆる浄化作用、カタルシスをしめ出してしまうのだ。「拘置所」においては、「時間」の不動化は、必ずある極端な、奇異なやり方でおこなわれる。「時間」がせき止められてしまうのだ。「拘置所」は《現代的》なものであり、われわれのもっとも今日的な日常生活にとけこんでいるが、そうはいっても「拘置所」のうちには、いわば時代遅れの謎めいた点、不思議な停滞、一時停止という観念の本質そのものが含まれているのである。
かくして私は写真と東京、そして拘置所という装置についての遍歴を重ねてはみたものの、しかし私は「拘置所」というものの本性を発見したわけではなかった。私は自分自身のなかにさらに深く降りていって、「拘置所」の明証を見出さねばならないが、それには拘置所への収容という機会を待たねばならないのかもしれない。その意味では、私はこれまで述べてきたことを取り消さなければならなかった。
*1 ロラン・バルト著 花輪光訳『明るい部屋』みすず書房、1985年
しかし、ロラン・バルトのタイトルが示唆するものは部屋を伴わない19世紀初頭に発明されたスケッチの補助装置としてのカメラ・ルシダである。英訳タイトルはCamera Lucidaであり、表紙にはカメラ・ルシダの図版が掲載されている。